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被仰出書(おおせいだされしょ)

 

 1872年、ときの政府にあたる太政官は、学校教育制度をととのえる一文を出しました。私たちが現在ひとしく受けることのできる義務教育の基礎を作り出した制度について、国の基本的な考え方を示した文章です。学校をつくるための制度の概要を記した『学制』の1日前に出されいます。「人々自(みずか)ら其身(そのみ)を立て、其産(そのさん)を治め、其業(そのぎょう)を昌(さか)んにして、以(もって)て其生(そのせい)を遂(とぐ)るゆえんのものハ他なし」ではじまる長文で、「邑(むら)に不学(ふがく)の戸なく、家に不学(ふがく)の人」ないよう説いています。  そもそも学校制度には、公立の学校などはありませんでしたから、校舎の建築や教師の給料はもとより、半紙一枚、墨汁一滴にいたるまで、すべて生徒の保護者の負担だったのです。ですから学校をつくって勉学にはげむことがこれからの時代に必要だ、などと言ってはみても、そう簡単にはことは運ばず、読み書きそろばんだけ出来ればよいと学校そのものに反対する人びとや、負担にたえられずに通学をあきらめる児童もかなりの数にのぼっていました。  この被仰出書は、たしかに高い理想と尊い理念とをうたっていますが、実際に学校をつくって通うとなると、多くの人びとにとって実に大変なことだったのです。日本国憲法のもとでこそ、義務教育というかたちで、等しく教育を受ける権利が保障されてはいますが、多くの子どもが学校へ通いたくても通えなかった時代は相当長く続いたのでした。貧しい家庭の子どもは、子守や工場での労働によって少しでも家計を助け、家族の負担にならないよう幼い頃から働くのがあたりまえになっていたのです。かの福沢諭吉も「小学教育の事」という文章(1872年)のなかで、就学年限をちゃんと終えるこ子どもが少ないことを貧困な家庭の生活実態と関連づけて書いています。  この翌日に文部省から出された『学制』では、全国を8つの大学区(大区)に、一大学区を32中学区(中区)に、さらに一中学区を210小学区(小区)に分ける学区制度をつくりました。また、それぞれの学校における教育の内容、教員の資格や生徒のきまりごと、学費に関することなどをとりきめました。小学校を上・下2等に分けたのもこの制度で、就学の年を各4年(下等=6歳から9歳まで、上等=10歳から13歳まで)とし、一般小学校のほか、女児小学、村落小学、小学私塾、貧人小学の存在も認めました。同時に出された『小学教則』は、小学校での各級の教科、その概略、教科ごとの時間数などを示しており、今日の学習指導要領にあたるものでした。

 

 

 


 

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